キミのコトも捨てて行けるかな?
066:全てのものを捨て去って
文芸部、というからにはそれなりに読書の好きな面子が集まる。読みもすれば書きもする。それでも運動部のように明確な成果が頻繁にあらわになるわけではないから活動自体はどこか緩やかで密やかだ。顔を見かけぬものもいればいつも集まるものもいる。村神俊也はそんな文芸部に幼馴染とともに籍を置く。幼馴染の空目恭一は村神以上の読書家で知識量も群を抜く。その理由が素直には呑みこめないものなのだが。それでも村神は空目と行動を共にする。ある程度つるんでいる仲間もいるし年少だった頃よりはましだと思っている。崩壊しかかっていた空目の家庭は崩壊して空目自身も半死半生の目に遭った。積極的に空目に関わっていたわけではなかったのは村神の性質だ。村神自身が群れることに執着しない。必要なら一人でもかまわないとも思っている。単純に扱いづらい変わり者の幼児がなんとなく一緒に居ただけの話だった。
今、部室には村神と空目の二人きりだ。珍しいが起こりえる事態であるのも確かだ。学校は高校だが大学のように単位制でそれに馴染んだ生徒たちの気質もどこか違っている。時間割は個々に違うし講義をふけたからと言ってしつこく声をかけるタイプの教師も少ない。黙って評価に反映させるだけである。そういった制度の隙間としてぽかりと時間の空くときがあって、そういう時に何となく集まる場所が部室や図書館になっている。村神は文庫本から目を上げて同じようにしっかりとした装丁の本の紙面を目で追っている空目を見た。
空目は神隠しにあったことがある
大人たちの間では誘拐事件だと言われていた気がするが当時は村神も幼く細かな事情は知らない。ただ空目がこぼした、向こう、という言葉にひどく引っかかった。空目の弟は帰ってこなかった。ともにさらわれて空目だけが帰ってきた。それから空目の読書量も知識量も増えていった。元々読書が苦になる性質ではないから拍車もかかる。村神も本を読むのは好きだがたぶんそれは読書好きという程度のものになるのだろうと思っている。空目の知識と読書は一般的に想起されるそれをはるかに超えていた。それだけにひどく危うく感じる。
空目が向こう側に行くとっかかりを見つけてしまったら
たぶん、と思いながら村神は答えを知っている。空目はきっと向こう側へ行く。村神の印象や思い込みに近いのだがどうもそこから離れない。
ぺら、とページを繰る微音だけが学生独特の喧騒から隔絶された部室でしていた。目で追う文章が頭に入ってこない。村神。名を呼ばれて顔をあげるが空目は同じ姿勢のままだ。
「なにが訊きたい」
「なんだそれ」
空目の目は紙面を眺めていたがその口元がふうと笑んだ。顔に書いてある。オレに言いたいことや訊きたいことがあるのだろう。むっと唇を尖らせるのは図星だからだ。村神の中で空目の思考や行動は必ずしも納得できるものではない。幼子ではあるまいし思う通りじゃないから嫌だなどとは言わないが不満は確実に募る。うつめ。なんだ?
「お前が今此処に居る理由ってなんだよ」
空目の目がぱちぱちと瞬いた。紙面からあげられた顔立ちはその賢しさのように栓た細い。きょとんとしたそれに村神の方が怯んだ。何を当たり前のことを訊くのかと言われた気がして怖かった。
「向こう、に行けていないからだ」
ざくりと切りつけられたような気がして村神は口元を引き結んだ。ごくりと喉を鳴らす。何か言おうとしたその間に空目の言葉が滑りこむ。
「――とでも言えば満足か?」
きょとんとするのは村神の番だった。は、ぁ? 言ったろう。お前の顔にそう書いてあると。揶揄われたのだと判って脱力する。憤りより先に己の間抜けさに気が抜けてしまった。くそったれ。悪口だな、村神。お前はどこかでそれを期待しているが拒みたいとも思っているようだな。空目の淡々とした言葉は村神自身にも曖昧だったことを暴いていく。切欠さえあればオレはまた。それを予測しながら、それ故にお前はその否定を求めている。いなくなりたいなんて聞けるわけがねえだろ。村神、視野が狭まっているぞ。もっともオレにそんなに執着するのはお前くらいか。空目の眼差しが不意に村神を射抜く。
「もしお前を――」
薄い空目の唇が震えた気がしたがすぐに自嘲のように口の端を弛める。詮無いことだな。無意味な仮定だ。なんだよ。構わん、忘れろ。
すべてを捨てて行けるのか
すべてを捨てて着いていけるか
迷いのような覚悟のような、けれどどこか願いでもあるようなそれが部室の空気を湿気らせた気がした。
「未練、かもしれんな」
何の、とは問わなかった。
「今現在の状況はけして悪いものではないのだろうな」
だから、とは言わなかった。
「それでもオレはやはり、お前を――」
言葉はそこで終わった。続きを村神は急かさない。答えはたぶん解っていて、それを言葉にしてしまったら本当にそうなってしまうような気がした。
《了》